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2021.10.8
とにかく、集中します。五時半に駅なら、どっちにしろちょっと早上がりだし。恋人はそう言った。私たちのマンションから駅の南口までは歩いて十分ほどの距離だ。同じように家で仕事をしていても、彼女は就業規則で始業と終業の時刻が定められている。今日はヤスミンとのミーティングに合わせて始...
2022年4月7日
受け渡される人生の時
スワンは遠からず死ぬ。『失われた時を求めて』七巻『ゲルマントのほう Ⅲ』は、死病を告白したスワンにむけてゲルマント公爵が投げかける台詞で幕を閉じる。「やあ、いいですか、そんな医者どものたわごとに打ちのめされていたらダメですよ、まったく! どれもこれも藪医者なんだ。あなたはピ...
2022年4月7日
2021.10.7
なんて? ちょっと待って、英語だから。恋人は真剣な面もちでスマホを見ながら、早口で読み上げるように呟く。聞きとれるほどの声ではない、と思うが、私が英語を理解できていれば、ちゃんと言葉として聞きとれているかもしれない。あー、と残念そうに言う声で、だいたいの内容はわかった。えっ...
2022年4月6日
2021.10.6
でも、自費で部屋のグレードアップはできるし、前後に休み取れば観光もできる。 いいね、それ。私はうなずく。英語がほとんどわからない私は、海外に行くことについて、恋人ほどフットワーク軽くできない。彼女はときどきそのことを忘れる。暗い声音にならないように返す。考えとく。...
2022年4月5日
2021.10.5
やったじゃん。 フランスなんて何年ぶりかな。外国も。 ヴェネツィア行ったのはいつだっけ。 カオルくんとつきあいはじめてすぐだよね。 そうか。日本人が監督した映画が作品賞かなにかにノミネートした年だった。ワイドショーで映画祭の話題になるたびに、恋人が映りこんでいないか、テレビ...
2022年4月4日
2021.10.4
昔は、現地でたまたま会って意気投合、みたいなディールが頻繁に行われていたそうだ。そういう作品にかぎって大ヒットしたりする。でも、パンデミック前にはすでに、分刻みでミーティングの予定を詰め込むようになって、そんな偶然の入り込む余地はなくなっていた。...
2022年4月4日
2021.10.3
袋のサイズのわりに内容量は少なく、ほんの数分で食べ終えてしまった。ふう、と満足そうに恋人がため息をつく。コンソメと甘い煙草の息だ。私たちは食器を流しに置いた。どう、捗った?と彼女が訊いてくる。それぞれの部屋にいる間、私たちはだいたい仕事をしている。休憩をとろうとLDKで会う...
2022年4月3日
2021.10.2
コンソメダブルパンチスパイシー。 コンソメダブルパンチスパイシーだよ。私たちは交互に読み上げる。はじめて見たから買っちゃった。 一枚ずつ口に入れる。辛っ、と二人で同時に言う。ぜんぜんコーヒーには合わないな。
2022年4月1日
2021.10.1
根負けしたように言葉を喋り、ドアを開けて出てくる。ZOOMで誰かと喋りでもしたのか、下は短パンのまま、上だけ襟つきだ。コーヒーはもう飲みすぎてるからいいや。カオルくんも、それ何杯目? 七杯目からは数えてない。 やめるの早いよー、ボクシングだって十まで数えるよ。...
2022年4月1日
2021.9.30
私はキッチンに出た。コーヒーのポットが減らないまま冷えていた。バルミューダのケトルがすこし温かいのは、恋人が紅茶でも淹れたのだろうか。音楽は止まっていた。 みやびさん。ノックをせず、届くか届かないかくらいの声で呼びかける。イヤホンをしていたり、よほど深く集中していれば気づか...
2022年3月30日
2021.9.29
なじみのない場所を、手探りしながらもとにかくずんずん歩いていって、時には気まぐれに道を曲がり、あぶなそうな場所に出たら引き返して考え直し、頭の中に地図を描いていく。その土地をあとにするころには、そこに暮らす人々ともまた違った、自分だけのその土地のイメージを持ち帰る。それが小...
2022年3月29日
2021.9.28
チームの主役は選手だから、とふだんは一歩退きつつ、歩きはじめるとつい先頭に立ってしまう川島に、ミツカくんは感銘かなんかを受けたらしく、それまでは鬼子母神前のコインパーキングに停まってた車の窓の〈愛猫家〉というステッカーの写真だったLINEグループのアイコンが、いつの間にか、...
2022年3月28日
2021.9.27
私は世界各地の、行ったことのない場所を舞台に小説を書く。日本代表は世界各地の、渡航先としてあまりメジャーでない国に遠征する。トルクメニスタンやウズベキスタンについて私が知ってるのは、その国にもサッカーをやってる人がたくさんいて、アジアカップとかで日本と試合をしたことくらいだ...
2022年3月27日
2021.9.26
ケトルが静かになったころには恋人の部屋は別の曲が流れはじめている。たぶんほんとうなら、私が主体的に動くべきなのだろう。この時間ならいちばん遠くに住んでる林原さんもまだ家を出ていないはずだ。時間をずらす、別日にリスケする、散歩じゃなく私たちの家に招く。下戸の私は一度もやったこ...
2022年3月26日
2021.9.25
けっきょくミーティングや散歩について、どうするか話さないままに、それぞれの作業に戻ってしまった。もちろん私たちは九人がみんな揃っているのがいちばん良い。でも、仕事、という明快な理由があるのだから、恋人がドタキャンしても誰も文句は言わないだろう。その場合、私もつきあって欠席、...
2022年3月25日
2021.9.24
マグを持って立ち上がり、LDKに向かう。恋人の部屋のドアは閉まっていて、かすかにリズムが聞こえる。クイーンかワムを流しているのだろう。晩夏の午後は影が強い。キッチンからでは、窓の外に見えるのは家々とその先の大学だけで、ガラス張りの附属図書館に映る、夕方に向けて色を濃くしてゆ...
2022年3月24日
2021.9.23
そうやって無心に書きつづけて、突然ふと我に返る。私は右手をキーボードにおいたまま、左手でマグカップを持っている。口に当てたマグ越しに画面を睨んでいる。書いてる途中の文があり、横に変換候補が並んでいる。マグのなかは乾いたコーヒーのにおいが充満していて、唇の、先のほうで挟んだ陶...
2022年3月23日
2021.9.22
単価のことはさておいて、漱石はとにかく書いたのだ。十六行書きながら、その無為な会話のあとにくる場面を頭のなかで組み上げた。文章を書いているときは、目の前の作品に集中していて、ほかのことを考えている余裕はない。書くことは考えることだ。とにかく書いてれば、そのうち続きが見えてく...
2022年3月22日
2021.9.21
漱石の『虞美人草』のなかに好きな一節がある。好きというかときどき思い出す一節だ。小野さんのところに旧友の浅井君が訪ねてきたときの、下女と小野さんのやりとりだ。 「通してもいいんですか」 「うん、そうさね」 「御留守だって云いましょうか」 「誰だい」 「浅井さん」 「浅井か」...
2022年3月22日
2021.9.20
とはいえ、図書館を辞めてからもう五年あまりが過ぎた。三十代の五年間の職歴が空白では、どうにか働き口が見つかっても、今と同じくらいの収入は望めない。何度、どういう仮定のもとに考えたって、ここで踏ん張ってくしかない、という結論は変わらない。だったら考えても詮はない、とわかってい...
2022年3月20日
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