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2021.7.7
私たちは同い年で、たぶん二十年とか昔の同じころ、列島の離れた場所でそれぞれのビデオを観て育ち、いまこうして私の滝の前で、まったく違う記憶を見せあって親しく語りあっている。奇跡のようなものだ。 あはは、どっこも同じだね。滝の数だけビデオがある。彼女は目尻に浮いた涙を指でぬぐい...
2022年1月4日
2021.7.6
冬になるとこのあたりは雪深く、私たちが立っているアスファルトも、春に溶けるまでずっと冷たい底になる。滝から跳ねたしぶきが、流路のわきの草花を凍りつかせる。滝は、いくつものちいさなつららに縁取られ、轟音も雪に吸収されて、あたりはひどく静かになる──。まあぼくはここ来たことない...
2022年1月3日
2021.7.5
ここを過ぎたらすぐのはず。 濃い豆腐の匂いは、私たちがそこを離れてもしばらくついてきた。建物が見えなくなったあたりで道は下りに転じ、しばらく進むと、地面の底のほうから水音が上がってくる。 滝の音? 恋人が自転車を漕ぐのをやめてこちらを見る。車輪がカラカラいいはじめた。再び、...
2022年1月2日
2021.7.4
短い傾斜を登るといきなり鼻が豆腐の匂いを拾う。豆腐の匂い、といま私はあのときのことを思い出しているが、鼻が拾った瞬間は、ただなにかとても嗅ぎ覚えのある、でも山のなかで出くわすには不釣り合いな気もする匂いで、なんか美味しそうな匂いが……、と恋人が言って、さっき家で、母が作った...
2022年1月1日
2021.7.3
それは──そうだね。私は頷き、自転車は短い橋を渡る。この上流が目指す滝のはずだった。そのことを伝えると、彼女は、まだまだ遠いなあ!と笑った。 コンビニみたいな休憩できる場所もなく、信号は見渡すかぎり車の影も見えない交差点ばかりで、私たちはほとんど止まることなく上りつづけた。...
2021年12月31日
2021.7.2
ないのか。 でも……、ぼくの地元は何かというと砂丘だから。べつに砂丘は砂丘でいいんだけど、自然ってそれ以外にもあるんだし、滝だってあっていい。道は山に入っていて、坂を上がりながら、息も絶え絶えに私は言った。その滝に行くことを提案したのは私だった。恋人はこの土地の出身ではなく...
2021年12月30日
2021.7.1
その滝はさ。平日の昼の、バイパスでもない生活道路は空いていた。ときおり上流の集落との間を行き来する小ぶりのトラックが走るばかりで、私たちは、何十年も前に舗装されたきり放置され、木の根がもぐりこんででこぼこにひび割れた歩道ではなく、車道の端を走った。あたりはときおり吹くぬるい...
2021年12月29日
2021.6.30
私は恋人がいっしょならどこでもいいし、彼女も、私が育った土地はなんでも見てやろう、という気構えで、梅雨の湿気にすぐ汗ばみながらも、えっちらおっちらペダルをこいで一級河川を遡っていく。彼女の故郷も地方の、私が育ったのと同じくらいの規模の小都市で、距離や移動の足についての感覚が...
2021年12月28日
2021.6.29
翌日は梅雨のただなかなのによく晴れて、でも空気はじめじめした朝だった。明日には東京に戻るから、一日を自由につかえるのは今日だけで、でも平日だから、定年でいったん辞めて再雇用されている父と、その年度の終わりにバス会社を退職する母は仕事に行っていた。私は車の免許を持っておらず、...
2021年12月27日
2021.6.28
その日は私たちはもう疲れ切っていて、離れの客間(もとは玄関入ってすぐの部屋が私の部屋だったのを、進学で実家を離れるのを機に応接間、というか両親が友人とお茶をする部屋にして、近い親戚がほとんどいなくなって使うことのなくなった客間に私の、置いていく荷物を運びこんで、でも呼び名は...
2021年12月27日
2021.6.27
しますでしょう。恋人はなぜかうれしそうに言い、雑誌を閉じて書棚に戻す。私はジョー・ネスボの薄めの本を棚から取った。この本棚にあるのは両親がどちらも読んだか興味ないかで、私たちが勝手に持っていっていいことになっている。恋人は京極夏彦の何かを取ろうとしたが、それは東京の部屋の私...
2021年12月26日
2021.6.26
あるね。私は本棚からその号を抜き出して、おざなりにぱらぱらめくる。東京の私たちの部屋にもそれと同じものが届き、そのときも隣には恋人がおり、ぱらぱらめくって、私の作品のページを見つけて、二人でひとしきりはしゃいだ。彼女は冒頭の一節を読み上げて、載ったねえ、と言った。...
2021年12月24日
2021.6.25
私の両親も読書が好きで、出会ったのはたしか大学のテニスサークルだったがアガサ・クリスティが縁でほかの誰より親しくなって結婚までしたとかで、私がふだん作品を発表しているような文芸誌はほとんど読まない。本棚には赤いハヤカワ文庫のクリスティほかいろいろ推理小説があり、帰省のたびに...
2021年12月23日
2021.6.24
仏間に入り、線香を焚く。仏壇に並ぶ位牌のうち、私が生前に会ったことがあるのは祖父母の二人だけで、あとの十人くらいは知らない。恋人は誰にも会ったことはないが、私の隣で静かに手を合わせてくれている。ほとんどの位牌は夫婦セットで並んでいるが、ぽつんと一人だけのものも二つあり、ひと...
2021年12月22日
2021.6.23
モラルがあっけなく変わってしまって、私たちは、疫病蔓延以前のことをうまく思い出せず、しかし私の場合、楽しかったことはだいたい以前にあって、ときどき自分の記憶の、以前と以後のモラルが混線したように以前の自分や身の回りの人に苛立ちを覚えたりする。家に入って、私たちは手を洗ったの...
2021年12月21日
2021.6.22
ただいま。こんにちは。私たちは声をそろえて違うことを言い、父は、こんにちは、おかえり、と困ったように微笑む。 疲れたでしょう、カオルも、みやびさんも。揺れんかった? 上のほうで、すこしだけ。 そう、まあゆっくりしてってください。彼は砂利を踏みながら私たちの横をすり抜けて門に...
2021年12月20日
2021.6.21
それは、もうずっと書きあぐねている中篇とはまた別の、去年の夏ごろに別の雑誌に渡した作品で、ずっと待たせている編集者からは、お作拝読しました、たいへんな力作ですね、で弊誌の原稿の進捗は……みたいな、はんぶん皮肉っぽいメールが来ていて、私は、いくつか下書き保存していた謝罪メール...
2021年12月19日
2021.6.20
あんたみやびさんにそんなくだらんことばっか言っとるだか? そうなんですよー、おたがい思いついたこと何でも話すから。 そうかあ。みやびさんいっつもすいません。 いやべつにくだらんことのつもりでは……、と私は口のなかでモゴモゴ言い、言うころにはもうスピッツの新曲はとっくに終わり...
2021年12月18日
2021.6.19
草野って誰よ。 ヴォーカル。スピッツの曲ほとんどつくってる。だからインタビューとかでもけっこう草野マサムネが話してて、そのなかで──。 カオルくんも昔好きだったって言ってたね、スピッツ。 そう、それで中学のときインタビュー読んで──。...
2021年12月17日
2021.6.18
スピッツ。なつかしいな。恋人は、恋人の母の運転で実家に向かう緊張を散らそうとするように言う。昔よく聴いてた。 スピッツといえばさ。畑はもう収穫を終えて、土が静かに冷えている。秋の終わりにしても強すぎる暖房で、飛行機を降りてやっと通りの良くなった鼻が、また詰まりはじめている。...
2021年12月16日
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